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続日本100名城金田城

  • 築造1350年・・・

     対馬市美津島町黒瀬にある浅茅湾に突き出した半島、城山(標高276メートル)に築かれているのが、特別史跡金田城跡です。
     奈良時代に朝廷が編纂した歴史書『日本書紀』にその名が記されており、「天智天皇6年11月、倭国やまとのくに高安城たかやすじょう讃岐国さぬきのくに山田郡やまだのこおり 屋嶋城やしまじょう對馬国つしまのくに金田城かねだじょうを築く」とあります。天智天皇6年とは西暦667年にあたります。日本書紀の記述が築造開始年を指しているのか、完成年を指しているのかは、はっきり分かっていませんが、いずれにしても金田城跡は1350年が経過した遺跡であると言えます。
    金田城跡 東南角石塁
    金田城跡 東南角石塁
  • 築造の背景・・・

     660年(斉明天皇6年)、当時の倭国と友好関係にあった朝鮮半島南西部の百済が、唐に攻められ滅亡しました。残された百済遺民たちは、国家再興を目指し、倭国に滞在していた(人質になっていた)王子の豊璋ほうしょうを旗頭として、軍を興し、倭国に援軍を求めます。663年(天智天皇2年)、倭国・百済連合軍は、白村江にて唐・新羅連合軍と戦いますが、大敗を喫してしまいます。
     その後、朝廷は唐・新羅連合軍の襲来に備えて、664年(天智天皇3年)に対馬、壱岐、筑紫に防人さきもりとぶひを置き、筑紫には水城みずきを築きます。さらに、翌665年(天智天皇4年)には大野城、基肄城などが築かれます。こうして、667年に築かれた金田城、屋嶋城、高安城など、九州から瀬戸内海に至る各地に、防衛のための拠点が築かれていきました。
    古代山城地図
    古代山城地図
  • 金田城跡に残る遺構・・・

    一ノ城戸

    一ノ城戸1
    一ノ城戸2
     谷間に築かれた石垣が良く残っており、底部には水門も確認できます。南側の張り出しには、江戸時代後期に積み直されたと見られる、石材と積み方が異なる石垣が残されています。

    二ノ城戸

    二ノ城戸1
    二ノ城戸2
     平成11年度の発掘調査で、門礎石、敷石、城壁、階段などが見つかりました。
     現在は遺構を保護するため、門遺構の上に網カゴを置いています。

    三ノ城戸

    三ノ城戸1
    三ノ城戸2
     城門は上流からの流水により破壊されていますが、残された石垣は7メートル近くの高さまで積まれていて、下から見上げると迫力があります。

    南門

    南門1
    南門2
     平成15年度の発掘調査で新たに確認された遺構です。間口1間、奥行3間の礎石建ちの城門であったことが確認され、何らかの上屋(櫓などの建造物)があった可能性も考えられています。
     ※現在は遺構を保護するため、土のうを敷き詰めています。

    ビングシ山

    ビングシ山1
    ビングシ山2
     金田城の推定城域の東に位置し、城内最大の平坦地がある場所です。女性の髪飾り(鬢櫛)に地形が似ていることからこの名が付けられました。
     発掘調査により、土塁と門礎石が発見され、さらにこの土塁は旧土塁と新土塁の二重構造になっていることが分かりました。また、土塁付近の掘立柱建物跡からは炉の跡も発見されるなど、防人の居住の痕跡も見つかっています。

    石塁

    石塁1
    石塁2
    石塁3
     金田城が築かれている城山で産出する「石英斑岩」と呼ばれる石を用いて積まれています。 石の大きさは大小様々用いられており、大きなものでは直径が1メートルほどのものもあります。 石塁の延長は約2.2キロメートル、最も高く積まれているのが三ノ城戸の約7メートルです。